京都の禅修行 [禅]
10年前の夏、京都の禅寺の門を叩いた。
私は、生活において何1つ不自由は無かった。
健康で、妻がいて、子どもがいて、住む家もあり、服も買える。
食べるものに困っている訳でもなければ、友達がいない訳でもない。
ただ心はいつも満たされていなかった。
いつも何かが物足りなかった。
遠い後になって、この理由はなんとなく分かるようになった。
ただそれを書くことも、話すこともできない。
それは自分自身が心にしまっておけばよい。
自分さえ、信じられなくなる時があった。
自分さえ、、自分の何を信じられないのか?
人は、自分の何を信じているのか?
地球何周分かの思考を巡らせて、やっとたどり着いた末に今の自分がいる。
ただ歳を重ねただけだ。見かけの上では。
世界中を旅した訳でもない。見かけの上では。
誰かに相談した訳でもない。
けれど10年前とは違う自分がいるのは事実で、自分を救ってくれたのは禅である。
寺の説教を聞けば、自分を救ったのは自分だと言われそうだ。
自分を救えるのは自分。それも事実。
ただ自分を救う過程において、何かに救われるのもまた事実。
これから、10年前に1度戻り、徒然なるままにふりかえっていこう。。。
私は、生活において何1つ不自由は無かった。
健康で、妻がいて、子どもがいて、住む家もあり、服も買える。
食べるものに困っている訳でもなければ、友達がいない訳でもない。
ただ心はいつも満たされていなかった。
いつも何かが物足りなかった。
遠い後になって、この理由はなんとなく分かるようになった。
ただそれを書くことも、話すこともできない。
それは自分自身が心にしまっておけばよい。
自分さえ、信じられなくなる時があった。
自分さえ、、自分の何を信じられないのか?
人は、自分の何を信じているのか?
地球何周分かの思考を巡らせて、やっとたどり着いた末に今の自分がいる。
ただ歳を重ねただけだ。見かけの上では。
世界中を旅した訳でもない。見かけの上では。
誰かに相談した訳でもない。
けれど10年前とは違う自分がいるのは事実で、自分を救ってくれたのは禅である。
寺の説教を聞けば、自分を救ったのは自分だと言われそうだ。
自分を救えるのは自分。それも事実。
ただ自分を救う過程において、何かに救われるのもまた事実。
これから、10年前に1度戻り、徒然なるままにふりかえっていこう。。。
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